「東の魯山人、西の半泥子」と並び称された陶芸家であった川喜田半泥子は、もともとは伊勢の豪商の家に生まれた実業家。幼名は善太郎、後に家代々の久太夫政令(まさのり)を名乗る。銀行頭取、地方議員などの要職をこなしながら、陶芸、書画、茶の湯、写真、俳句などに才能を発揮した異能な人だった。
中でも、陶芸では遊び心と雅趣にみちたすぐれた造形を創造した。最近は、回顧展の開催や彼の随筆集『泥仏堂日禄』(講談社文芸文庫)が発刊され、再び評価が高まっている。その文章も、なんの衒いもない瓢逸としたもので、暖かな人柄が忍ばれるもの。
一番町20(当時は、上二番町47番地)にあった屋敷は、長男のために建てた家であったが、しばしば上京する時の東京の拠点として活用された。随筆の中では、永田町の山の茶屋で作陶展を開いた時(昭和12年4月23〜25日)に、泉鏡花からの電話で会場に行くのが遅れたことなどが軽妙な筆致で描かれている。
泉鏡花の他にも多くの文人たちの交わりもあり、魯山人、加藤唐九郎など当時の陶芸界の大御所たちとも交流が深かった。
ジャンル | 陶芸家 |
ゆかりの地(旧) | 上二番町47 |
ゆかりの地(現) | 一番町20番地 |
※ゆかりの地での(旧)は旧地番を表記し、(現)とはその場所の現行地番を示しています。
また、現行地番からのリンク先(既成地図ソフト利用)は、あくまでも「その周辺」とご理解ください。
参考文献: