島崎藤村、泉鏡花、有島武郎、樋口一葉、内田百閨A津田梅子、与謝野晶子、滝廉太郎、三浦環、武者小路実篤、中村吉右衛門など、百数十人にのぼる著名人・文化人たちが、かつてこのまちに住んでいました。それらの人物を通して、私たちのまちとのかかわりや業績を紹介します。
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冒頭で触れたように、一葉は引っ越しを重ねたが、一回目の引っ越しは、なんと一葉の生まれた年。明治五年のことである。春三月、千代田区内幸町で産声をあげた一葉は、その年の夏に、同区内の下谷練塀町(現・神田練塀町)へ移った。赤ん坊だったのだから、これはもちろん親の都合だ。
明治の人は、大八車に蒲団その他を積んで、今よりは、身軽な感覚で引っ越ししたのかもしれない。それしても、戸主となった後の一葉の場合、自分の自由意志というより、家族の要請や小商いをするため、あるいはその店を閉じることになって、など、やむを得ない事情から、安い家賃、少しでも快適な家を求めて、東京を移り住んだのだろう。女所帯だったから、引っ越しの際には人手も要った。住まいを移すのは簡単なことではなかったはずだ。
だが「土地」が表現者の感受性に刺激を与え、新しいものを書かせるということがあるから、引っ越しは消耗ばかりでなく、結果として一葉の文筆に、力を貸したのではないだろうか。
たとえば村上春樹の作品を読むと、舞台が、日本でもアメリカでも、どこでも構わないし、わからないように書かれてある。一葉の作品はそうではない。作品には番地のついた地面が横たわっている。東京の地霊が、文章をどっしりと支えていると感じられる。
一葉が生まれた翌年、明治六年には地租改正が行われ、土地の測量が行われ、土地の私的な所有権というものが、初めて発生した。一葉がもし、長く生きたなら、東京で自らの土地を得、家を建てて永住するという生き方ができたかもしれない。だが父亡き後、どこへ居を移しても、毎月の家賃から逃げることはできなかった。「居る」だけで金が流れ出ていくこの家賃というもの、わたしも頭では、仕方のないものだとわかっている。しかし人間、このこと(家賃)を意識の外に出さないことには、呑気に暮らすこともできない。生活を食い破る、鬱陶しくて、いやーなもの、それが家賃ではないだろうか。