一般には、明治・大正期の社会主義者として知られる堺利彦だが、単一の肩書きで紹介するにはあまりにも多くの分野で活躍した人でもあった。福岡の貧しい士族に生まれ、「万朝報」に入社し、黒岩涙香、内村鑑三、幸徳秋水らの知遇を得た。後に幸徳らと「平民社」を結成して日露戦争当時、非戦論を唱える。さらに赤旗事件で入獄中に大逆事件が起ったが、獄中だったために難を逃れた。
明治43年、日本初の翻訳会社「売文社」を大杉栄らと設立し、多くの主義者たちの生活をここで賄った。共産党の設立に参加して初代委員長となるが、その後、党を離れ無産政党運動に転向した。最後まで非戦反戦の主張を貫いた人であった。彼は、自宅と会社をめまぐるしく移転したが、中でも?町近辺に多く居住した。
明治38年(1905)9月延岡為子と結婚し、麹町区元園町一丁目27(現:麹町二丁目10)に住む。友人の木下尚江が『電車賃』という一文の中で電車賃値上げ反対運動の折に、この元園町の家を訪れた時のことを描いている。翌年10月に淀橋町柏木(新宿区北新宿)に移転し、さらに四谷区伝馬町、四谷左門町などをへて、大正5年9月に麹町区麹町八丁目24(現:麹町五丁目3)に移転。晩年までここに住んでいた。大正12年12月4日付で、市ヶ谷刑務所から妻の為子と娘の真柄への獄中書簡があり、この住所宛に送っている。(以下はその一節)
「真柄君、お手製のサンドイッチおいしく頂戴した、然し分量が多過ぎて少し困つた、近日から又朝をパンにして昼はこゝ のホンの少し食ふ事にする、食事と食事の間が短いので、腹が減らない、モウ滅多に持込には及ばないが、若し来るなか少しウマイ物を極少量で≠オ」
2010年に出版された黒岩比左子著『パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い』(講談社刊)は著者の遺稿となった力作で、堺の多才な活動ぶりが活写されている。
ジャンル | 思想家 |
ゆかりの地(旧) | 元園町一丁目 |
ゆかりの地(現) | 麹町一丁目・二丁目 |
※ゆかりの地での(旧)は旧地番を表記し、(現)とはその場所の現行地番を示しています。
また、現行地番からのリンク先(既成地図ソフト利用)は、あくまでも「その周辺」とご理解ください。
参考文献: