西洋音楽のあけぼのは、番町から。
明治維新後、日本に洋楽教育の必要性を感じた伊沢修二はアメリカに留学し、帰国後の1879年(明治12)「音楽取調掛」(後の東京音楽学校、現在の東京芸術大学音楽学部の前身)の設置が決まり、初めて日本に洋楽教育機関が誕生した。後に紀尾井町に住むことになる明治の文豪幸田露伴の妹であった幸田延は、13歳でこの音楽取調掛に入所し、当時のお雇い外国人教師などからピアノ、ヴァイオリン、声楽などを学び、19歳の時アメリカへ留学。
その妹の幸田幸(後に安藤幸=四番町に居住)もまた、ウィーンへ留学。1900年(明治33)には、当時一番町に住んでいた滝廉太郎もまた、番町の地からドイツへの留学を果たしたのである。
黎明期の洋楽は番町ゆかりの人の手によって成し遂げられたといっても過言ではない。