麹町で産声をあげた白樺派の巨匠。
武者小路実篤の父・武者小路実世は政府から派遣されてドイツに5年間留学したほどの逸材であった。実篤は、元園町一丁目38(現:一番町19)の広い住まいで生まれたが、3歳の時その父が亡くなり、以後は3歳違いの兄公共とともにこの地で育つ。父は、兄については「わるくいっても公使になれる」と言い、実篤については「この子をよく育ててくれる人があれば、世界に一人という人間になるのだが」と言ったと、自伝小説「或る男」の中で述べている。
その父の予言通りに、公共はドイツ公使に、そして実篤もまた「お目出たき人」「幸福な家族」などの小説を書いた個性的な作家として名を成すに至った。
※里見とんの「とん」は、正しくは「弓+享」です。
藤村先生、失恋の痛みは消えましたか。
明治学院を卒業した藤村は、明治24年に「女学雑誌」の翻訳の仕事をしたことをきっかけに、翌年秋から教壇に立ち英語と英文学を教えるようになる。ときに藤村20歳、多感な年頃であった。つづきを読む
百間先生、今でもノラをお探しですか。
「阿房列車」の作家が、戦前に住んでいた家は五番町。
当代一の随筆家、内田百間(※)は、それまで住んでいた市ケ谷の合羽橋の借家から、麹町区土手三番町37番地(現:五番町12。現在の番町会館のところ)の借家にに移ってきたのは昭和12年の暮れ。ここを含めて内田百間が住んでいた場所が、この近辺に3ヶ所ある。ニ七通りの五番町交差点から四ッ谷へ抜ける道筋は、まさに「百間通り」といっても過言ではない。土手三番町37には、昭和12年から東京空襲で焼け出されるまで住んでいた。つづきを読む
※内田百間の「間」は、正しくは門構えに月です。
新しい文学の風、「文学界」の同人たち。
明治女学校は、多くの先進的な女性を教育したと同時に、文学の分野でも新たな潮流をつくった。明治女学校の特色はその教育方針だけでなく、「女学雑誌」「女学生」といった雑誌を発行し、メディアを活用して学校の真価を問うたところにあったのである。そこから新たに派生したのが第一次「文学界」である。島崎藤村、北村透谷、星野天知、平田禿木、戸川秋骨、馬場孤蝶、青柳有美、桜井鴎村といったこの第一次「文学界」の同人たちの多くは、明治女学校の教壇に立ち、生徒とともに成長していった。また、樋口一葉を世に送りだすという文学史上燦然と輝く功績も残したのである。
『近代日本文学を彩った人たち(2)』につづく