『幻の文人町』番町麹町界隈
この番町麹町界隈には、明治・大正・昭和にかけて、実に多くの作家・文学者たちが住んでいた。それは、漱石、鴎外、一葉らが住んでいた本郷界隈や、田端、馬込、世田谷などに多くの文学者や芸術家たちの住んだいわゆる文士村と呼ばれる地域に勝るとも劣らない質量である事実に、今さらながら驚かされる。
有島生馬は、『幸田露伴先生が裏の借家を見に来られた時、ここは文人町ですねといって帰られたそうだが・・・(中略)パリー辺なら取りあえず文人町とでも改名される所だ。』と書いているように、まさに、ここは「知られざる幻の文人町」なのだ。
これは、「番町文人通り」と呼ぶにふさわしい道だ。
麹町通りから大妻通りに抜ける東西の道(番町中央通りと番町学園通りとの間に並行している道。四ッ谷寄りの道は「成瀬横丁」と呼ばれていた。)は、まさに「番町文人通り」と呼ぶにふさわしい一筋の道である。住んでいた時期は必ずしも同じではなかったが、この通りの周辺に(必ずしも道に面しているわけではないが)東から西に向かって、かつて藤田嗣治、島崎藤村、初代中村吉右衛門、泉鏡花、有島武郎、有島生馬、里見とん(※)、菊池寛、武田鱗太郎、明治女学校、与謝野晶子・寛夫妻、網野菊、串田孫一、川喜田半泥子といった人々が住んでいたのである。
※里見とんの「とん」は、正しくは「弓+享」です。
六番町の有島邸は、大正・昭和文学の梁山泊だった。
大きな長屋門のある有島邸。
新潮日本文学アルバム「有島武郎」
白樺派の作家として知られる有島武郎をはじめ、その弟の洋画家で作家でもあった有島生馬や作家・里見とんなどが育ったのが下六番町(現:六番町3)であった。
政府の役人から実業界に転じた彼らの父・武が明治29年に大きな長屋門がある広大な旗本屋敷を買い自邸としたのである。
有島武郎の死後は、有島兄弟たちが住む一方、広大な敷地の一部を作家・菊池寛が一時住み、文藝春秋社もここに置いた。まさにこの地は、大正から昭和期の文学の梁山泊であったといっても過言ではないだろう。