樋口一葉の恋の通い路は、本郷から麹町へ
5000円札の顔になった樋口一葉は、内幸町生まれ。その後、本郷赤門前、菊坂、浅草竜泉寺町、丸山福山町などへ移り住む。一葉といえば、一般的に「本郷」というイメージが強いが、ここ「番町麹町」にもゆかりのある人であった。とくに萩の舎で同門だった田辺花圃、島田政子、中村禮子らが番町に住み、しかも師でもあり思慕していた半井桃水が住む家もあり、一葉の日記にもたびたび登場する。それにしても一葉は、本郷菊坂から徒歩で優に1時間以上もかかる半井宅まで、どんな想いで通いつめたのだろうか。その健気さが胸を打つ。
新しい文学の風、「文学界」の同人たち。
明治女学校は、多くの先進的な女性を教育したと同時に、文学の分野でも新たな潮流をつくった。明治女学校の特色はその教育方針だけでなく、「女学雑誌」「女学生」といった雑誌を発行し、メディアを活用して学校の真価を問うたところにあったのである。そこから新たに派生したのが第一次「文学界」である。島崎藤村、北村透谷、星野天知、平田禿木、戸川秋骨、馬場孤蝶、青柳有美、桜井鴎村といった「文学界」の同人たちの多くは、明治女学校の教壇に立ち、生徒とともに成長していった。また、樋口一葉を世に送りだすという文学史上燦然と輝く功績も残したのである。
先進的な女性を育んだ明治女学校
1885年(明治18)、木村熊二夫妻によって飯田町に創立された明治女学校は、当時「女学雑誌」の編集人で熱血の人でもあった巌本善治が引き継ぎ、1890年(明治23)に麹町区下六番町6番地(現:六番町3)に移転してきた。 羽仁もと子、相馬黒光、大塚楠緒子、清水柴琴、野上弥生子(※)など、明治・大正・昭和に活躍する数多くの女性たちを育てたことで有名である。
当時は寄宿舎制度で、教員・生徒がこの地に住んでいた。この頃の教員には、巌本の妻の若松賤子、若き日の島崎藤村、北村透谷、津田梅子らがおり、女医の先駆けとなった荻野吟子も校医・舎監であった。
藤村が教え子の佐藤輔子に失恋したのもこの場所である。 1896年(明治29)火事に遭い校舎は焼失。その後は巣鴨庚申塚に移転し、1908年(明治41)には、その輝かしい歴史を閉じることになる。
※野上弥生子は、巣鴨移転後の生徒