三宅雪嶺は、フェノロッサに影響を受けた明治・大正・昭和期の評論家で、政府の欧化主義を批判して日本主義を主張し、雑誌「日本人」を創刊した。1892年、巌本善治の媒酌で田辺太一の娘田辺龍子(筆名:花圃)と結婚し、下二番町37(現:ニ番町5)に住んでいた。自己の歴史観から同時代を俯瞰する「同時代史」は、昨今、再評価されている。花圃の実家・田辺家も下二番町5(現:ニ番町11)にあった。
ジャンル | 思想家 |
ゆかりの地(旧) | 下二番町37番地 |
ゆかりの地(現) | 二番町5番地 |
※ゆかりの地での(旧)は旧地番を表記し、(現)とはその場所の現行地番を示しています。
また、現行地番からのリンク先(既成地図ソフト利用)は、あくまでも「その周辺」とご理解ください。
参考文献: